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インドで活躍する卒業生たち(3)

 

聖地バナーラスで学んで、研究者の道へ

澤田彰宏さん(商学部貿易学科1999年卒)

私は1995年に拓殖大学商学部貿易学科(現・国際ビジネス学科)に入学し、卒業まで4年間「インド・パキスタン語」(ヒンディー語)を履修しました。入学時の第一希望は「ブラジル・ポルトガル語」でしたので、第二希望だったヒンディー語は必修単位のためにしぶしぶ始めた、というのが正直なところです。

その「インド・パキスタン語」の1、2年次の担当は、坂田貞二先生(当時商学部教授、現・名誉教授)と水野善文先生(当時非常勤講師、現・東京外国語大学教授)という、その当時は全く知らなかったものの、日本におけるヒンディー文学研究の第一人者である両先生でした。つまり、初心者が第二外国語として文字から学び始める入門授業としては、とても贅沢な環境でした。

坂田先生の授業は入学直後の学生にも容赦なく(つまりとても熱心で)、初級文法主体の授業にもかかわらず、インドあるいは南アジアの文化にまで広く興味をもてるようにいろいろ工夫されていらっしゃいました。そのため学生もそれなりの授業への参加姿勢を求められ、「第二語学なのになんでこんなことを・・・」なんて、当初の私は思っていたものです。それでも、しだいに坂田先生の教育への熱意と研究者としての業績を知ることになり、徐々に尊敬の気持ちをもつようになっていったことを覚えています。

ただ、その間の大学生活はというと、私は特に目的があって拓大に入学したというわけでもなく、部活にもサークルにも所属せず、ただ大学に来て友達と話してバイトに行くばかりの日々でした。入学後1年が過ぎたころからそんな毎日にだんだん焦りを感じていたものの、さらにもう1年が経ってしまいました。このままではいけないと思い、何か大学に来た証を残したくなり、3年生に上がる時に一念発起して、インドへ語学研修に行こうと思い立ちました。

ただ、それは坂田先生のクラスに引き続き所属することを意味し、1、2年次の経験から厳しい授業になることは予想できました。それでも思い切って選択授業でヒンディー語を継続履修し、坂田先生の3・4年ゼミにも入りました。実際、選択ヒンディー語の学生は2人だけで、先生と3人だけの授業はなかなか厳しいものでしたが、その分中身の濃い授業が毎週続きました。その結果、その年の夏に「個人研修奨学金」を得てインドに行くことができたのです。

ガンジス河畔にて ミシュラ先生宅にて
ガンジス河畔にてミシュラ先生宅にて

インドでは、初めての海外滞在ということもあって、ここでは書ききれないほどのカルチャーショックを受けました。まず、ヒンドゥー教の聖地として有名なバナーラス(またはワーラーナスィー。日本ではバラナシやベナレスとも呼ばれることもある)で、ヒンディー語の研修をインド人の先生のもとで受け、その後にデリー、ムンバイー、プネーなどに旅行もしました。

滞在中は慣れない環境のため、お腹を壊した時もありましたが、ヒンディー語を教えてくださったミシュラ先生(元バナーラス・ヒンドゥー大学講師)や滞在先のお母さんのネーギーさんのおかげで、一月半もの滞在を無事に乗りきることができました。

この長期間のインド滞在により、私は外国の文化への興味をより強く持つようになりました。そこで卒業後に大正大学の大学院に進み、語学研修中に出会ったヒンドゥー教の祭礼(ラクシャー・バンダン祭)をテーマにしてインド研究を本格的に始めました。それ以来、バナーラスを調査地としてインドに何度も通うことにもなりました。そして昨年3月に博士号を取得し、現在は東洋大学の客員研究員として研究を続けています。

さて、自由な大学生活といっても、外国語大学の学生でもない限り、インドでそれだけの期間を過ごす機会はまずないと思います。たとえ個人でのバックパッカー旅行でも大変です。

でも、それを実現させてくれる制度が拓大にはあります。大学のサポートで奨学金をもらってインドで学び、暮らす経験ができるのです。拓大生ならこれを活かさないのはもったいないです。自分のやる気と行動によって、それまでの毎日が変わります。それはきっとこの先の人生にも残る経験になります。これは私自身の経験です。

後輩のみなさん、ぜひ拓大でヒンディー語を学んで、インドへ飛び出してみてください。

ラクシャー・バンダン祭 友人の家族と
ラクシャー・バンダン祭友人の家族と

 

 

掲載日:2012年10月24日

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